1.はじめに

このブックレットでは、糖尿病と食について、考えます。
糖尿病の患者さんにとって、どのような食事療法が、血糖のコントロールを良くするとともに、その人の好みに合い、実行しやすく、長続きがするでしょうか。
従来の、糖尿病の食事療法は、一日に食べる総カロリー(主食や副食を含めた総量)を控え、半分強のカロリーを炭水化物(糖質)から摂取する食事療法です。
タンパク質を控え、脂肪の量を減らす脂肪制限食です。そして、総カロリーを計算するために、それぞれの食品について、どのぐらいの量が何カロリーになるのか、食品交換表と呼ばれている表に基づいて、理解をしなければなりません。

患者さんにとっては、なかなか煩雑な食事療法ですし、かならずしも患者さんの嗜好に合った、食事とは言えません。多くの方の目から見れば、ご飯や麺類を中心した主食の量が多く、副食に豊かさがありません。さらに、糖尿病の食事療法なのですが、総カロリーの中にしめる炭水化物(糖質)の量が多いですから、食後には血糖は高くなりやすいのです。というのは、食後に血糖を上げるのは炭水化物(糖質)だけだからです。

ですから、従来の糖尿病の食事療法には、限界があると言えます。
最近、このような反省に立って、新しい食事療法が提唱され、有効性が確かめられつつあります。炭水化物(糖質)制限食とそれを味付けする地中海食です。
このブックレットでは、あたらしい食事療法を説明し、糖尿病のテーラーメード食事療法を提唱します。

2.炭水化物(糖質)制限食の考えに出会う

炭水化物(糖質)制限食は高雄病院理事長の江部康二先生が提唱された糖尿病の食事療法です。先生は、「主食を抜けば糖尿病は良くなる!」(2005年 東洋経済新報社)という本を書かれ、話題になりましたから、知っておられる方が多いと思います。私も読んでみました。なぜなら、私が診ている患者さんの多くが従来の食事療法を守っておられるのですが、晩御飯にご飯やうどんを食べると、翌朝の血糖が高くなるのを不思議に思っておられたからです。

最初は、私は本の表題に抵抗を感じました。なぜなら、私たちは、総カロリーを制限し、約半分のカロリーは炭水化物から摂り、脂肪摂取をひかえることが原則であり、食後の血糖が高くなるのには、糖尿病の薬やインスリンを用いて、下げればいい、これが糖尿病の治療だと考えていたからです。しかし、江部先生の発想は、まったく逆でした。食後に血糖を上げるのは、炭水化物(糖質)だけだから、極力、献立から、ご飯やうどんやパンを控えれば、血糖は上がらない、血糖のコントロールは良くなるという考えです。

炭水化物(糖質)制限食の要点

  • 一日の食事から、極力、ごはんやうどんやパンなどの精製された炭水化物は、控える。これは、徹底しており、実際の献立は、お昼ごはんに玄米を少量食べるだけです。
  • 脂肪やタンパク質は制限なく食べてもよい。ですから、この療法では従来の主食と副食と言う考え方はなくなっています。
  • 炭水化物を食べるにしても、精製度の低い炭水化物を食べる。たとえば、玄米や全粒粉小麦などです。
  • 脂肪やタンパク質は制限なく食べてもいいのですが、できるだけ、魚貝や肉や納豆やお豆腐やチーズを食べる。この点はのちに触れる地中海食と似ています。
  • 油脂は、オリーブオイルや魚の脂に豊富に含まれているω3多価不飽和脂肪酸をとる。その代表はEPAやDHAです。この点も地中海食に似ています。
  • お酒は適度に飲んでいいが、焼酎やウイスキーなどの蒸留酒がよい。ビールや日本酒などの発酵酒はすこし糖分が含まれるので勧めない。

このような内容の食事療法です。(この食事療法を始められた患者さんはおしなべて空腹時血糖やヘモグロビンA1cは良くなっています。)

私は、最初は驚きました。わたしたちは、炭水化物(糖質)を摂取し、食後に高くなる血液中のブドウ糖(血糖)をインスリンの働きで、筋肉や脂肪に取り込み、体の活動に必要なエネルギーを蓄えなければならないというのが医学の常識なのですから。この考えのどこが間違っているのでしょうか。私ははっとしました。この常識は健常な糖尿病でない方にはあてはまります。
そして、現在の糖尿病の治療の考えもこの健常者にたいする常識がもとになっているのだと。しかし、糖尿病の方の病態は違っています。この相違を十分考えて、糖尿病の食事療法を考えないといけないと思い至り、改めて炭水化物制食を考えてみました。

3.栄養素の代謝を考える

炭水化物や脂肪やたんぱく質などの栄養素は、複雑な段階を経て、分解され、体のエネルギーを作ります。この過程を「代謝」と呼んでいます。
また、「異化」とも言います。ですから、「糖の代謝」は糖が分解され、エネルギーが作られる過程のことを言います。そして、体のエネルギーはATP(アデノシン三リン酸)がADP(アデノシン二リン酸)に分解されることによって、作られますから、代謝の過程は栄養素が分解されて、ATPが作られることと言っていいでしょう。

糖は「解糖系」と呼ばれている経路でピルビン酸になります。そして、「クエン酸回路」と「酸化的リン酸化」と呼ばれている経路を経て、ATPが産生されます。 また、脂肪は体の中で、リパーゼと呼ばれている酵素で脂肪酸に変換されます。
脂肪酸は脂肪組織に取り込まれてふたたび脂肪として貯えられるとともに、脂肪酸は複雑な過程を経て、分解され、上に述べた二つの経路をへて、同様にATPが産生されます。脂肪酸が燃えるときは、糖が燃えるときに比べて、約2倍のエネルギーを産生します。脂肪が燃える方が効率はいいのです。脂肪は脂肪組織に蓄えられるとともに、燃えてエネルギーを産生します。最も有効なエネルギー源といっていいでしょう。

注意したいのは、脂肪酸は代謝されても糖には変換されませんから、脂肪を摂っても食後に血糖は高くなりません。
タンパク質はどうでしょうか。タンパク質は体の中で、アミノ酸に分解され、それが筋肉などの合成の材料になります。アミノ酸からは、脂肪酸と糖とグリセロールが作られます。ですから、タンパク質を摂取すると、時間をへて、糖がつくられ、エネルギーができます。しかし、食後に血糖を上げることはありません。また、一部のアミノ酸から肝臓で糖が合成され(糖新生と言います)、必要に応じて肝臓から放出されます。空腹が長く続いても、低血糖にならないのは、また、脳の糖の供給にもこの糖新生が大切な役割をはたしています。

ですから、三大栄養素からは代謝の過程を経て、エネルギーが作られますが、食後の血糖を上げるのは炭水化物(糖質)だけです。一部のタンパク質は食後しばらく時間がたってから糖になります。脂肪は分解されても糖にはなりません。

4.インスリンの働きと炭水化物(糖質)制限食の関係について考える

糖尿病の患者さんは糖尿病の食事療法について、説明をうける度に、カロリーと言う言葉を散々耳にします。「一日の食事のカロリーを制限しなさい」と。定番の糖尿病の食事療法の原則は、カロリーを控え、一定にし、栄養素の配分については、炭水化物を5割から6割を摂り、脂肪を控えることです。

では、カロリーとは何でしょうか。カロリーとは、人の活動に必要な体内でつくられるエネルギーのことです。私たちは、ATPと言われる分子が、一つのリン酸がとれて、ADPになる時に、産生されるエネルギーを体の活動のために利用しています。もともと、カロリーは、血糖や高血糖とは全く別のことを意味しています。

では、インスリンの分泌や働きが低下している糖尿病の方が、「一日の食事のカロリーを制限しなさい」と教えられる理由はなんでしょうか。

ここでインスリンの働きを考えてみましょう。インスリンは全体としてエネルギーを貯える方向に働きます。筋肉や脂肪組織では、糖を取り込み、筋肉運動に備えます。
この働きが糖尿病になると障害されますから、血糖が高くなります。

脂肪組織では、脂肪の分解を抑え、中性脂肪を貯えるように働きます。
また、肝臓では、一部のアミノ酸から糖がつくられますが、この糖新生の過程を抑制し、作られた糖が不必要な時に、肝臓から放出されることを監視しています。

この監視の力が糖尿病になると落ちてきて、血糖を高めます。長期に渉る作用としては、アミノ酸からたんぱく質を合成し、核酸とDNAを合成するように促します。

このようにインスリンは「同化」(エネルギーを貯え、体の骨格を作る働き)のホルモンです。(しかし、一部の方に誤解されていますが、インスリンは肥満ホルモンではありません。その過剰な状態では肥満を助長するように働きます。たとえば、インスリン療法をされている患者さんで、適正な食事療法ができずに、インスリンが増えているような場合です)インスリンは、栄養素が燃えて、エネルギーが産生される過程である代謝(異化)には必要ありません。

ですから、糖尿病の方がカロリー制限を勧められるのは、エネルギーの産生に支障があるからではなく、単に、食べる量を控えることで、食後の血糖の上昇を抑えることが目的のようです。しかし、従来の糖尿病食では、必要とされるカロリーの中で、食後の血糖をあげる炭水化物を55-60%の比率で摂るように、教えられるわけですから矛盾しています。

5.糖質制限食とカロリー制限食 ー大事な考えの相違

先に述べたように、江部康司先生のご本に教えられ、循環器病研究財団の求めに応じて、「糖尿病と食」と題した小冊子を著しました。その後、開院し、私のクリニックのホームページにも掲載をしました。幸い、多くの方に見ていただいたようで、糖質制限食を実行されている患者さんが来院されました。その患者さんは名古屋に在住の方で転勤のために、紹介をされてきました。その紹介された医師が灰本先生で、私は初めて知りましたが、江部先生の講演をお聞きになり、いち早く糖質制限食の有効性を認識し、実践されていました。
灰本先生と世話人の先生方はローカーボ食研究会をたちあげておられ、私はそのホームページからも多くを学びました。

言葉の定義をします。糖質(炭水化物)制限食は英語では low-carbohydrate diet やcarbohydrate-restricted dietと表現されています。

低炭水化物食と炭水化物を制限した食と言えます。英語ではここで言います糖質に対応するタームないようです。Sugarは単純糖質(甘い糖分)を指すようです。糖質は厳密に言えば、炭水化物から植物繊維を除いたものです。

カロリーについては、すでに説明しています。ですから、糖質制限食とカロリー制限食はその内容は随分と異なっていますし、考え方は本質的に異なっています。糖質制限食は糖質のみを控えるだけで、原則として脂肪やたんぱく質を制限しませんから、食欲を満たすために、脂肪やたんぱく質が増えます。

一方、カロリー制限食である現行の糖尿病食は、カロリー制限食です。標準体重あたり、(kg)25から30Kcalを乗じた総カロリーを設定します。しかも、炭水化物を55-60%の比率で摂取するように勧められますから、おのずと低脂肪食になります。ここでは、ご飯ではなくおかずを制限される訳ですから、貧しい献立の食事が続くことになります。

灰本先生に倣って、糖質制限食をローカーボ食、現行の糖尿病食をハイカーボ食といいかえることができます。

6.糖尿病の病態(糖尿病をきたす原因なり要因)を考えると、炭水化物(糖質)制限食は理にかなっています

糖尿病の病態(高血糖をきたす原因なり要因)を考えてみましょう。糖尿病の方は、膵β細胞からのインスリンの分泌が低下し、筋肉や肝臓の対するインスリンの働きが鈍くなる結果、糖をうまく処理できず、血糖が高くなります。糖尿病が軽い場合は、食後の血糖だけが高くなりますが、糖尿病が進むと食後の血糖の上がりが強くなるとともに、空腹時の血糖も高くなります。血液中に糖が淀んだ状態は、血管にダメージを与え、細い血管が障害され、動脈硬化をすすめます。
膵β細胞からインスリンの分泌を刺激するのはブドウ糖だけですから、グルコース応答性インスリン分泌と言います。(最近、話題になっているインクレチンもインスリン分泌を促進しますが、インクレチンを分泌するのは経口摂取した糖ですから、インクレチンによるインスリン分泌の促進もグルコーセ応答性です。)、正常の方では糖質を多く摂り、食後の血糖が高くなるとそれだけインスリンの分泌が亢進します。グルコースによる直接の刺激と、インクレチン効果が合わさった結果です。このように血糖の上昇に応じてインスリンが分泌されることを「インスリン反応」と呼ぶことにします。

糖尿病では、β細胞からのグルコース応答性インスリン分泌の障害があり、高血糖をもたらします。(糖尿病では経口摂取した糖に応じて分泌されるインクレチンに分泌障害や作用障害があるかはまだよく解っていません)では、糖質制限食は糖尿病の重要な病態である、グルコース応答性インスリン分泌障害に有益に働くのでしょうか。当然、インスリン分泌障害がありますから、摂取する糖質が少ないほど食後の血糖は高くなりません。この点は、間違いありませんが、インスリン分泌障害の病態にそのものに有効に働かないでしょうか。
糖質に富んだ食事は食後の血糖を上昇させ、糖尿病の人では、インスリン反応を増強し、膵β細胞に負担をかけ、疲弊させるから、糖質制限食はこの病態に有効であると、糖質制限食を薦める本にはこのような論点が散見されます。

たしかに、糖質制限食はインスリン反応(インスリン変動―insulin fulatulation )を減弱しますが、それがインスリン分泌障害を改善するかは、まだ明らかにされていません。後に、触れますが、2型糖尿病でのインスリン分泌障害は、遺伝的に決められている部分があるからです。
しかし、インスリン反応を減弱できることは、糖尿病血管合併症を抑制できる可能性があることはいくつかの臨床研究で示されています。その意味では、糖質制限食は、食後の高血糖を抑制することで血管合併症のリスクを減らすことができる可能性があります。

もう一つ、糖質制限食を薦める論点の中で、言われているのは、糖質の負荷が減るから、インスリンを節約できるというポイントです。糖尿病の薬のひとつであるスルフォニル尿素剤は、β細胞を刺激して、無理にインスリンを出す薬ですから、β細胞が弱っている糖尿病の方には、使いたくない薬です。SU剤は、グルコース応答性のインスリン分泌を促進しませんから、生理的に無理をしているのです。炭水化物(糖質)制限食は、β細胞の負担を軽くしますから、SU剤を減量や中止できる場合があります。同じ理由から、インスリンを注射している方には、量を減らすことができますし、場合によっては注射しなくても済みます。
他にも利点があります。最近では、食後に血糖が高くなる状態は(詳しく言いますと、食後にスパイク状に血糖が上昇することです)、動脈硬化を進めたり、心筋梗塞を起こしたりするリスクになると言われています。この食事は動脈硬化からおこってくる病気を予防できる可能性があります。

糖尿病の方は、加齢とともに、膵β細胞はその量(マス)と質(例えば、HOMAβから見たインスリン分泌能)が低下することが知られています。 その意味で、膵β細胞からインスリンの分泌を刺激するのは、グルコースだけですから、糖質制限食でその負荷を少なくするのは理にかなっています。
近年、精製炭水化物(糖質)を多く摂取するようになり食後の高血糖のスパイクが高くなり、膵β細胞に「負担」がかかっていることはその通りと思います。そして、倹約遺伝子と関連させて、日本人の膵β細胞はその負荷に弱いと論じられています。

また、近年、膵β細胞のグルコース応答性インスリン分泌機構は急速に解明されており、その成果を見ると、それは人の生命の基本の設計図の一つと考えられます。確かに、「糖質」を多く摂取するようになったのは近年のことですが、このインスリン分泌機構の精緻さを考えると、進化の古い段階から存在したようです。ですから、元々、人はグルコースに対して適切にインスリンを分泌するのです。(インクレチン効果を含めてです)このことは日本人、アジア人、欧米人に共通したことですが、先に述べた「稲作漁労文明」と「畑作牧畜文明」の歴史的な土台によって、その反応性が異なると考えると、日本人と欧米人の糖尿病の病態の差が理解できそうです。

このように考えると、膵β細胞に食後の高血糖の負荷がかかるだけでは、糖尿病が発症する必要条件かもしれないけれど、十分な説明ではないように思います。最近、人ゲノムの全解読を受け、多くの疾患と関連した遺伝要因(SNP 遺伝子)が、全ゲノム規模での検索で(WGA whole-genome-analysis)解明されています。糖尿病もその解析の最たるターゲットのひとつで、10以上の遺伝子が明らかにされています。ほとんどの遺伝子はグルコース応答性インスリン分泌に大切な働きをする遺伝子です。ですから、糖尿病の発症には、β細胞に対する高血糖や肥満、運動不足によるインスリン抵抗性の「負荷」の基礎に(基盤病態として)グルコース応答性インスリン分泌の遺伝的脆弱性があります。実際、痩せている人で糖尿病を発症する人がいる反面、高度の肥満の方でも糖尿病を発症する人は多くありません。
また、日本人を含めたアジア人に元々β細胞の遺伝的脆弱性が存在するのかという疑問の回答は今後の問題のようです。

インスリン分泌障害は糖尿病の基本病態のひとつです。「本物の」糖尿病はある程度インスリン分泌障害が進まないと出てきません。我々が直面し、苦労しいるのは「本物」の糖尿病の方です。糖質制限食は大きな武器ですが、それだけでは済まない現実にしばしば出くわします。それが医師としての課題かなと考える昨今です。

7.炭水化物(糖質)制限食の考えに落とし穴はあるでしょうか

このように極端に炭水化物(糖質)を制限して、本当に私たちの体にとって害はないのでしょうか。糖質は体にとって大切なエネルギー源です。しかし、先に説明をしたように、脂肪とタンパク質がエネルギー源の代わりになることができます。次の心配は、脳は栄養として、糖を専ら利用しています。しかし、炭水化物(糖質)制限食といっても、全く糖質が摂られないことはありませんし、タンパク質が分解されて生じるアミノ酸から肝臓で糖は作られますから、この疑問にも心配ありません。
では、インスリンの働きが必要な「同化」の過程に、炭水化物制限食はどのように影響するでしょうか。糖からつくられるグリコーゲンは肝臓や筋肉に貯えられて、運動などの活動に使われます。ですから、筋肉運動や体力の維持に支障を来たさないかです。しかし、よほどはげしい運動を空腹時に続けない限り大丈夫です。
最後の疑問は、この食事療法ですと、摂る脂肪やタンパク質の量が増える可能性があるわけですから、肥って、かえって糖尿病は悪くならないでしょうか。この疑問は私たちの体の代謝や食の根幹に関わっています。
膵臓のβ細胞からインスリンの分泌を刺激するのは糖質だけです。つまり、糖質を多く摂り、食後の血糖が高くなるとそれだけインスリンの分泌が亢進します。このように血糖に応じてインスリンが分泌されることをインスリン反応と呼ぶことにします。つまり、インスリン反応がたかまると血中に過剰にインスリンが分泌されます。過剰なインスリンは肥満をもたらします。しかし、炭水化物(糖質)制限食はインスリン反応をなだらかにしますから、インスリンは過剰にはなりません。この意味では、この食事は肥満をもたらさないと言っていいでしょう。要は、脂肪の摂りすぎが肥満をもたらすわけです。
しかし、日常の食事として、タンパク質や野菜をうまく組み合わせれば、まず脂肪を摂りすぎることはありません。

8.炭水化物(糖質)制限食の要点は糖の代謝から脂肪酸の代謝への変換です

炭水化物(糖質)制限食の要点は、インスリンが不足している糖尿病の方は、脂肪を主として摂り、血糖を下げ、インスリン反応を弱くし、β細胞を休ませ、回復させ、残っているインスリンで運動などの活動に備える、療法といっていいでしょう。糖尿病の方が、糖尿病をよくしたいという思いから発明し、工夫した療法です。主食が炭水化物(糖質)(ブドウ糖 glucose 正確にはピルビン酸)から脂肪(脂肪酸 fatty acid)に変わったともいえます。つまり、体の代謝の経路を糖から脂肪酸を中心にした代謝に変換したことになります。

炭水化物(糖質)制限食の要点

炭水化物制限食は糖の代謝から脂肪酸の代謝へエネルギー産生のやり方を変えたことを説明しました。このことはその通りなのですが、まったく糖質を摂取せず、その時は、エネルギーの産生と備蓄には支障をきたさないかです。糖は最初のステップとして、解糖系と呼ばれている代謝の道筋を経て、ピルビン酸になります。そして酵素の働きを経て、アセチルCoAという分子になり、クエン酸回路と酸化的燐酸化を経て、ATPが産生されます。先に説明をしたようにATPが人の体の活動のエネルギーになります。人の体にはATPが足りなくなった時には、それを産生します。(この点は、大事な論点になるAMP kinaseとの関連)また、脂肪が正確には脂肪酸が代謝されるときも(この過程をβ酸化と呼んでいます)、アセチルCoAが産生され、上に述べたように、クエン酸回路と酸化的燐酸化を経て、ATPが産生されます。しかし、脂肪酸が燃えるときのほうが、はるかに多くのアセチルCoAが産生されますから、エネルギー産生からは、ずっと効率がいいのです。その意味では、糖を使用せず、脂肪酸を使用することは、理に適っています。
しかし、一方通行ではないようです。糖の分解の解糖系と脂肪酸の分解は協調しています。うまくカップルする必要があるのです。生化学の格言「脂肪は炭水化物が燃えるもとで、燃える」はこのことを言っています。ですから、このバランスをどうするかです。
脂肪酸の分解が亢進すると、余剰になり、ケトン体が肝臓で産生されることはよくしられています。ケトン体は体には害はなく、ある組織はケトン体を栄養としています。しかし、過剰に急に産生されると、血液が極度に酸性になり、体におおきな害を与えます。インスリンが急に欠乏したときに起こる糖尿病性ケトアシドーシスという病態です。
ですから、ここにもバランスが必要です。
このように考えてくると代謝のバランスがおおきなテーマになってくることが解っていただけると思います。もちろん、糖尿病でない人と糖尿病のひとでは戦略がちがうことをよく弁える必要があります。実際、極端な炭水化物制限食は、このバランスを犠牲にして、食後の血糖を管理していることになります。もちろん、日本糖尿病学会が推奨する、糖尿病食の炭水化物の割合は、多すぎますし、糖尿病の方が食後の血糖を上げないためには、もっと減らすことのほうが合理的であることは、間違いありません。正確な答えは難しいですが、一日一食は炭水化物を摂った方がいいと思います。そして、GIの低い炭水化物を。

9.糖質制限食と食の文明

炭水化物(糖質)制限食と食文化、大きく言えば文明の生態史観との関係

日本人の主食は、ご飯、うどん、餅、そして、特に戦後、パンなどの炭水化物であり、主食がないとお腹がいっぱいにならないと言う人はたくさんおられます。実際、患者さんを前にして、糖尿病の食事を説明する段になると、何度も遭遇します。そこから、本当に、日本人は特に、糖尿病学会が薦める糖尿病食 炭水化物を55から60%にする食事を、歴史的に摂って来たのだろうか、 そして、いわゆる洋食、現在のファストフードを含めた、欧米食の混在がどのように日本人の食生活に変化をもたらしているのか、また、炭水化物(糖質)制限食を薦めることに勢いがあまって、米食の基盤にある文明まで、軽視しているのではないかと言う疑問があります。

このような疑問に回答を与えてくれる本があります。私は偶々、本屋で、手にしたのですが、大切な出会いでした。それは安田嘉憲先生の書かれた「稲作漁労文明―長江文明から弥生文明―」(雄山閣 2009年)です。安田先生は「稲作漁撈文明」は日本と東アジアに起こり、森と川と海の循環を基本に自然の調和を維持し、それを大切にするこころを持った文明である。それは、ユーラシア、ギリシャからイングランドに広がる「畑作牧畜文明」と対比され、後者の歴史的優位性が今後の環境文明のあり方に、有害な影響を与えることを警鐘し、前者の文明を大切に温存し伝えることの重要性を説いた本です。
現在では、米食が切り離され、その基盤にある稲作そしてそれとカップルした漁撈の文明の内容までなかなか想像できません。さらに、戦後、「畑作牧畜文明」がもたらした食文化、-肉、牛乳、パン、バター、チーズが戦後急速に混在したためにますます、それが見えにくくなっています。

安田先生の書かれた本は、私たち糖尿病と食を考えるものにとって大きなヒントを与えてくれます。炭水化物は、農耕の開始、発展に由来します。農耕は「稲作」と「麦作」に分かれますが、それをもたらした文明と思想は大きく変わると書かれています。森と川と土地をどのように利用するかによって、実際の文明形態は、「稲作漁労文明」と「畑作牧畜文明」に大別されます。「稲作漁労文明」は安田先生がたが発掘、調査された、「長江文明」に由来し、それは日本の「縄文文明」に大きな影響を与えたことを強調されています。この文明は森と川と海の循環を維持し、稲作と漁労を営み、生命の循環を信仰する文明であると説明されています。生命を生み、育むのは女性ですから、女性中心の社会です。食の観点から見ると、広葉樹林が森に生育し、冬に落葉し、その堆肥が川に流れ、海に運ばれ、プランクトンの栄養になり、魚が大きく育つというイメージでしょうか。一方、「畑作牧畜文明」は、麦を栽培し、牧牛などを飼育しますが、その動物たちは、緑を食べ、果てには、森を破壊します。そしてその文明の食の豊かさをもたらしたものは、果樹栽培です。オリーブがその最たる代表ですが、その油を利用することで、油であげる調理法が発明され、食欲を満たす、食が出来上がってきたと説明されています。当然、それと対比されるのが、縄文文明の土器です。食材を蒸し、煮ることができたのです。

また、日本での稲作の伝播についても、教えられました。約3500年前の気候寒冷期に、「長江文明」を担った人々が、北からの牧畜民の圧力を受け、ボートピープルとなった人々が南九州にたどり着き、稲作を伝えたと書かれています。従来言われていた、朝鮮半島を経由して稲作がつたえられたとする説は、あまり根拠がないようです。また、稲作は急速に日本中に広まったのではなく、縄文文明の「半栽培漁労文明」が保たれたまま、時間をかけてひろまり、弥生文明は縄文文明と連続していると言われています。上で述べた、森と川と海の自然の循環を基本にしていると言う意味で。
このような食の文明を考えると、現在の日本人の食は、日本に従来からある食に加えて、欧米、中国、東南アジアの食が混在していますが、そのルーツが解り、頭が整理できます。

それ以後、第二次世界大戦後間もない頃まで、私たちの食は炭水化物が主で、タンパク質は魚や大豆からとり、それも多くはありませんでした。脂肪にいたっては摂取してきた量はすくないものでした。脂肪とくに動物性脂肪を多く摂るようになったのは、この30年ぐらい前からです。その意味では、この炭水化物制限食は私たちのいままでの食生活とは随分と違います。(しかし、この食生活は私たちの祖先が私たちの風土にマッチしたように工夫して偶々発明したものです。歴史的には不可避であったと思いますが、現在は、多くの国の人が歴史をかけて作ってきた食が沢山あるのですから、それを活用しない手はありません。糖尿病の方の食事療法は、多くの食のあり方を土台に工夫すればいいのであって、その工夫がこの炭水化物制限食だと考えればいいでしょう。)
この食事療法は、ご飯やうどんやパンなどの主食はできるだけ、極力控えて、「腹七分目」が基本です。脂肪や糖を甘くて美味しく食べたいと思う心は脳に備わっていることが解っていますから、油断をしないで下さい。

10.糖質制限食のエビデンス

本当に、糖質(炭水化物)制限食は空腹時血糖やヘモグロビンA1cを改善したり、体重を減らしたり、脂質代謝に良い影響を与えるのでしょうか。そして、これらの臨床指標(サロゲートマーカー代替指標)をよくすることで、心血管病や癌を予防し、生命予後をよくするのでしょうか。この疑問に答えるために、臨床研究や疫学(コホート)研究が行われます。臨床研究のデザインは、ある薬剤や治療法が有効であることを検証するために、原則として、その薬剤なり治療法を施す群と、そうでない群を無作為に(ランダムに)分け、代替指標の改善が、目標とする臨床指標(エンドポイント)をよくするか検討します。 エンドポイントは、糖尿病、高血圧や高コレステロール血症の臨床研究では、心血管病のイベントと総死亡が用いられます。 また、疫学(コホート)は一般住民やある特定の集団を対象にして、長期間、身体特徴、臨床特徴や生活習慣を追跡することで、それらと糖尿病や高血圧、癌や総死亡との関係を検討します。 その内容については、「糖質制限食の疫学(コホート研究)と臨床研究」を参照ください。

11.糖尿病食としての地中海食

このように考えると糖尿病の方の食事療法には、地中海食も勧められます。
私は、東京慈恵医科大学の横山淳一先生の書かれた本から多くを教えられました。(「低インスリンらくらくダイエット」日本文芸社 2002年)地中海食は低インスリンダイエットや低GI食と密接に関係しています。実はこの考えは上に述べた、炭水化物制限食にも生かされています。
GIはグライセミックインデックスの略です。GI値はブドウ糖を基準にして、炭水化物や果物を食べた時に、血糖がどの程度上昇するかを表した値です。たとえば、白米は玄米に比べて、GI値はかなり高いですから、白米を食べた方が食後の血糖は上がりやすいのです。血糖の上がりがはやく、高いほどインスリン反応は高くなりますから、白米を食べた方が肥りやすいことになります。ですから、低インスリンダイエットと低GI食はコインの表と裏なのです。また、この考えは炭水化物制限食のひとつの柱でもあることも解っていただけると思います。

地中海食は南イタリアの風土食です。主食はパスタです。パスタは低GI食の代表です。オリーブオイルを沢山使い、油の少ない子羊の肉や青背の魚が副食です。また、豆をたっぷり摂り、キノコ類を食べます。チーズはナチュラルチーズを食べ、赤ワインをたっぷりと。オリーブオイルは一価不飽和脂肪酸であるオレイン酸を含み、悪玉コレステロールを上昇し、中性脂肪を下げる働きがあり、青背の魚に含まれているEPA(ω3多価不飽和脂肪酸のひとつです。体内で合成されないので必須脂肪酸と言われています)は動脈硬化が進むのを防ぎ、心筋梗塞の予防にいいと言われています。南イタリアでは、パスタをたっぷり始めに食べるようですから、炭水化物制限食とは言えませんが、それ以外は、似たようなものですから、糖尿病の方の食の幅を広げるのにいいヒントになります。私が地中海食は炭水化物(糖質)制限食を補い、味付けをするものだといった理由はここにあります。

12.ある糖尿病専門医の文章に出会う

ある医学情報の雑誌を見ていて、以下のような文章に出会いました。食後代謝異常が血管障害と関連するという記事の中で、「では、食後高血糖、食後TG血症と言った、食後代謝異常の管理・治療をどのように行うべきだろうか。食後血糖値の上昇を抑えるという視点に立てば、中には「糖の摂取を抑えて脂質中心の食事を摂る」との発想にいたるひともいるかもしれない。しかし、このような「低インスリンダイエット」による方法は、痩身への有効性がしめされているものの、血管への影響については非常に問題があると思われる。
そもそも、インスリン分泌の引き金は血糖の上昇であり、分泌を促進するためには、炭水化物の摂取は不可欠である。加えて、インスリンは血糖低下のみならず、脂質代謝にも重要な役割を果たしている。
従って、2型糖尿病患者の食事療法に関しては、やはり日本糖尿病学会が推奨する「炭水化物60%、脂質25%、たんぱく質15%」の栄養バランスが望ましい。加えて、糖質の種類にも目を向け、白米ではなく玄米や五穀米を選ぶなど、複合糖質や血糖値が上昇しにくい糖質の摂取に心がけると良い。また、血中の遊離脂肪酸の種類を変えることで、血管内皮への影響も変わる可能性があるため、摂取する脂質の種類を肉類から魚類やオリーブオイル主体の「地中海食」に変えることも考慮に値する。伝統的な「和食」や、イタリア発祥で注目されている「スローフード」(何のことか首をかしげますが。)も理にかなった方法とも言えよう。さらに、血糖値の上昇を緩やかにするためには、食事はできるだけゆっくり摂るのがいいだろう。」

ここには、糖尿病専門医や内科医がなんとなく納得するような内容が含まれています。しかし、いくつかの混乱があるように思われます。ひとつは、これはいままで述べてきたように、議論の根幹にかかわることですが、ここでも、糖尿病の病態と糖尿病でないいわば正常の状態との混同があります。そして、炭水化物(糖質)制限食や地中海食についての理解、認識不足です。

たしかに、インスリンの分泌を促すのは、炭水化物に由来する糖ですが、糖尿病の方にはインスリン分泌障害がありますから、それに対応するには炭水化物を制限するほうがいいのではないでしょうか。また、たしかにインスリンは脂質代謝に対しても、役割をもっていますが、食後の高い中性脂肪に対してでしょうか。食後高血糖と食後TG血症を同列に考えていいのでしょうか。食事療法についても理解不足です。地中海食はそれなりに高脂肪、高タンパクですから、栄養素の構成は日本糖尿病学会が言う比率にはなりません。
また、「炭水化物(糖質)制限食」はかならずしも「低インスリンダイエット」と同じではありません。
また、一般医家向けに外来診療を教えるテキストの中にも、糖尿病の食事療法は、摂取エネルギーの設定、各栄養素の配分、特に炭水化物の調整が重要であり、摂取エネルギーの55%~60%を炭水化物で、たんぱく質は体重あたり1~1.2gとする。(脂肪の望ましい摂取量は触れられていません)そして、三食をできるだけ規則正しい時間帯にとること、間食を控えること、よく噛んでゆっくり食べることが大事であると書かれています。

この二つの糖尿病専門医が書いた、食事療法は漠然と医師のなかでは了解されていることのようですが、いざ、踏み込んで考えている人にとっては物足りないし、ましては患者さんにとってはなおのこと、どうするのが一番血糖値をよくするためにはいいのかは、皆目わからないでしょう。これが現状なのだと思います。私もつい最近まで、炭水化物(糖質)制限食を、糖尿病の病態を踏まえて、また、代謝の基礎を踏まえて、糖尿病の食事療法に適当なのか、これがより良いことなのかを考えることがなければ、似たような考えでした。むしろ、もっといけないのは、栄養士に任せきりであったことでしょう。

このように、糖尿病の食事療法の選択肢として、「炭水化物(糖質)制限食」や「地中海食」が注目されてくると、「和食」の役割も考えてみたくなります。林望さんの「旬采膳語」という本は、和食の日本の文学、歴史を踏まえた美味礼賛で、文章の艶もおいしいものです。その、あとがきで、あらためて和食が愛でられています。
純な和食はたしかにこのようだと思います。旬の日本の文字通り多彩な食材を用いた、達者な料理人がこれは玄人であれ素人であれ、問いませんが、作った料理なのです。では、脂肪は何なのでしょうと問いたくなります。林さんのいわれる、「和食」は精進料理に近いものなのでしょう。棚橋俊夫さんのいわれる「野菜の力」です。本当に、日本人の食には、脂肪は確たる位置はしめていないのでしょうか。

13.オーダーメード糖尿病食

では、従来の糖尿病食(脂肪制限食)と炭水化物(糖質)制限食と地中海食ではどの食事が糖尿病の養生にとっていいのでしょうか。最近、「ニューイングランド医学誌」に興味ある調査の結果が報告されています。この三種類の食事療法を肥満の人と糖尿病で肥っている人に、無作為にどの食事を実施してもらうかを決めて、減量効果と糖や脂質の関連の指標にどのようにいい効果を持っているかを調べました。結果は私たちが予期したものとは違っていました。炭水化物(糖質)制限食と地中海食は脂肪制限食に比べて、減量効果はよく、しかも長続きしました。また、前者の二つの食事は糖や脂質の関連の指標にもいい効果がでていました。
このことははっきりと糖尿病食は選択肢が増え、従来の糖尿病食だけではなく、炭水化物制限食や地中海食は有効な糖尿病食になることを示しています。献立に幅ができ、その人の好みにさらに合うことですから、炭水化物制限食や地中海食の方がすぐれていると言えます。糖尿病の食事療法もテーラーメード療法の時代になったといってもいいでしょう。その方の糖尿病の状態や好みに応じて、食事療法を選択できるのです。

糖尿病が中等度から重く、インスリンの分泌が悪い方には、炭水化物制限食がいいと思います。献立の幅も広がります。洋食の好きな方は、炭水化物制限食と地中海食をミックスした食事がいいでしょう。軽症から中等度の糖尿病の方で、ご飯がなかなか控えることが難しい人には、従来の糖尿病食(脂肪制限食)が適しています。
和食が好きな方にも適しています。

14.おわりに

糖尿病と食の話題は、想像以上に奥の深いものです。
一歩踏み込んで考えてみると、従来の糖尿病食は私たちの体の栄養素の代謝や糖尿病の病態からはかならずしも理にかなったものではありません。
炭水化物(糖質)制限食や地中会食の方が糖尿病の方にはむしろ適したものです。